この記事は4分で読めます。吃音当事者のわのぺんです。
「吃音はどうすれば改善するのか?」「吃音は克服できるのか?」SNS上でも様々な議論がなされています。
私は吃音を意識しだしてから30年以上経ちますが、いまだに答えは見つかりません。
でも「吃音があっても幸せになれるのか?」この疑問については、私なりの答えを見つけました。今回は私の体験に加え、とある絵本の紹介を交えながら記事を書きたいと思います。
吃音は私の一部であると気が付いた
私には難発の吃音があります。「あ行」や「ら行」が特に苦手で、発語しずらい固有名詞も常に変化しています。
常時吃音がでている訳ではなく、家族や親しい間柄の人たちの前では、比較的吃音の波も穏やかです。ただその時はフイにやってきます。
5分前に話せていた言葉の頭文字が、突然口の中で真っ白になったように消えてしまいます。勝手に身体や喉に力が入り、なんとか絞り出そうと手や足をこっそり動かしてみたり。深呼吸してもダメだったら、言い換える言葉を探したりもします。
頭には言いたい言葉があるのに、いつも見えない壁が邪魔をする。飛び出せなかった言葉達が、身体の中でグルグルと渦を巻いて息苦しい。難発の症状がでている時は、まるで空気の海で溺れているようです。
テンポ良く会話できる人や人前で堂々と発言している人を見るたび、うらやましくなる時もあります。「頭に浮かんだことをそのまま滑らかに話せたならどんなにいいだろう。」何度も思いました。
でも不思議なことに、スラスラ話せる自分の姿を想像できない。無理に想像してみても、どこか不自然で違和感が消せませんでした。どこかで気づいていたのかも知れません。吃音はもう私の一部になっていることに。
ここで一冊の絵本を紹介したい思います。
『ぼくは川のように話す ジョーダン・スコット文 シドニー・スミス絵』という絵本です。
内容紹介
「朝、目をさますといつも、ぼくのまわりはことばの音だらけ。そして、ぼくには、うまくいえない音がある」 苦手な音をどもってしまうぼくは、クラスの朝の発表でもまったくしゃべることができなかった。放課後にむかえにきたお父さんは、そんなぼくを静かな川べりにつれていって、ある忘れられない言葉をかけてくれた。
引用:偕成社 | 児童書出版社
瑞々しい言葉と絵が胸をうつ、素晴らしい絵本です。後半の仕掛けを開けた時、私はしばらく目を離せませんでした、、、。吃音で悩んでいる方、特に子供さんに読んでほしい絵本です。
この絵本で特に心に遺った箇所は、あとがき「ぼくの話し方」の一部分です。
吃音によって、ぼくは人と深く結びついていると感じ、同時に、ほんとうにひとりなのだとも感じます。吃音は怖いくらいに美しい。
引用:「ぼくは皮のように話す」/文:ジョーダン・スコット
なめらかな話し方であればいいのに、と思います。でも、そうなったら、それはぼくではありません。
引用:「ぼくは皮のように話す」/文:ジョーダン・スコット
川の水はあわだって、うずをまき、なみをうって、くだけていく。水面は完全な平面ではなく、不完全なデコボコで。そこに光が反射し、キラキラと輝く。吃音含め私の不完全な部分、不器用な部分もこの水面のようなものではないかと。そう感じました。
娘の頭を撫でている時、おいしいお茶を飲んでる時、好きな音を聴いてる時、キレイな景色を観ている時。私は幸せを感じます。私の中の吃音は消えていないけれど、私の幸せは吃音のあるなしとは別の場所にあります。
逆にこれまでの人生で辛かった時、悲しかった時。吃音がなければ全て回避できたのでしょうか?答えはNOです。多少減ったかもしれませんが、吃音以外の要因もあるのでゼロにはならなかったと思います。
「 吃音は幸せの有無に関係ない 」と思う
私は吃音を個性とまでは言い切れません。だってやっぱり辛いですから、、、。でも人は誰しも大なり小なり生きづらさを抱えています。
私の場合その生きづらさが吃音だった、ただそれだけなんだ。そう思えた時、どんなに完璧に見える人にも、小さな不器用さを感じられるようになりました。ただうらやむだけじゃなく、フラットな関係を築けるようになってきました。
「吃音があっても幸せになれるのか?」 私の答えは「幸せにも不幸せにもなれる。吃音は幸せの有無に関係ない。」です。
今日も私の中から吃音は消えていません。大きくなったり小さくなったりを繰り返しています。消えなくても、囚われないように。これからも小さな幸せを積み重ねていきたいです。
ご一読いただきありがとうございました。
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