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私は吃音当事者のはると申します。吃音は一般的に「言葉が出づらい障害」という一言で済まされると思います。しかし、私は人生に大きな影響を与えうるものだと思っています。今回は私が幼少期から様々な人と関わる中で吃音について考えてきたことをお話したいと思います。
話し方を真似されて、吃音があると知った。
私は吃って言葉が上手く言えない自分しか知りません。
幼稚園の時の記憶はかすかにありますが、その頃は自分が言葉を上手く話せないということは分かりませんでした。
言葉が連発して出ていたような、かすかな記憶はあります。
しかし、それが苦しくて辛いものだと認識はしていなかったように思います。
小学3年生ぐらいの時だったでしょうか。当時、同じ住宅に同級生が住んでいました。
その子の2つ年上の兄弟と遊んでいた時に「よく吃って話すよね」と突然言われました。
「吃る」という言葉を聞いたのは、その時が初めてでした。
私の話し方を真似している彼の姿を見て、その時に「これは吃ると言うのか。」と理解しました。
吃音があっても話すことが好きだった小学生時代。
「私が上手く話せないことには特別な名前があって、普通の人はならないのか。」
その時から、吃音はダメなもので、恥ずかしいものなんだと捉えはじめました。
今思えば、その時に吃音に苦しめられる人生が始まったと思います。
小学生の時は、吃音について悩んだり、苦しんだりした記憶は、正直そこまでありません。
「自分は上手く話せなくて、変な喋り方をしてる」という自覚はあっても、それによって実生活で困ることはなかったからかもしれません。
放課後に遊ぶような仲の良い友達もいて、話すことは好きだったように記憶しています。
小学生の時は、クラスでも積極的に発言することができていた。
小学校低学年の時は、クラスで発表するのが好きでした。
小学3年生の時のクラスでは、発表する度にポイントがもらえることになっていました。
発表をすれば1ポイント、人の意見に付け足しや、反対意見を言えば3ポイントがもらえる仕組みです。
そして1週間に獲得した合計のポイントを集計するというものでした。
上位になってもご褒美を貰えるわけではなかったのですが、先生からみんなの前で褒めてもらえました。
自分の意見を言うたびに、ポイントカードに増えていく「正」の字も嬉しかったですが、それよりも人に自分の意見を言えたことや、納得させられたことが何より楽しかったです。
特に国語が好きで、文章から登場人物の気持ちを読み取ることをしていました。
「本文には書いてないけれど、こういう見方もできるんじゃない?」「それはちょっと登場人物の気持ちとは違うんじゃないかな?」
先生からすれば「積極的に授業に参加する生徒」で、同級生からすれば自分の意見の粗を探して発表をする「ちょっと面倒くさい人」と思われていたと思います。
発表ポイントの集計をする時に、私は毎回多く発表のポイントを獲得した上位に入っていたことをよく覚えています。
嬉しかったですし、幼心にそのことを誇りに思っていました。(はる)
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