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こんにちは、吃音当事者のteruteruと申します。私は大学生の頃に吃音を発症し、吃音への無理解によって辛い経験をしてきました。そんな私は、吃音者の「生きやすさ」は当事者だけで解決するものではなく、社会全体が自分ごととして捉えるべきではないか、と考えます。今回は私がそのような考えに至った体験をお話していきます。
大学生の時に突然吃音になってしまい、将来が不安に。
吃音が始まったのは、大学生になってからでした。
1人暮らしを始めて数か月が経った頃、アパートの大家さんに挨拶をしようとした時に言葉が出てこない感覚に襲われました。
「おはようございます」
この一言が出てこなかったのです。
まるで喉にブレーキがかかったような感覚で、不安になりました。
一時的なものだと思っていましたが、その後どんどん悪化していき、友人との会話や独り言でさえ吃ることが増えました。
その頃は何が起こっているのか分かりませんでしたが、後に「吃音」という症状だということを知りました。
それと同時に、言葉を使う仕事が怖くなりました。将来、どのようなキャリアに進めば良いのか、分からなくなってしまったのです。
吃音当事者の生きにくさの本質は社会の「無関心」?
そんな悩みと共に、症状が改善しないまま10年以上が経過しました。
その時、私は営業職をしていました。
「ア行」が出にくいため、上司からは発声練習を課せられていました。
吃音者にとって、発声練習をすることは苦痛を感じるものです。
しかし、日本では理解が進んでいないため、このようなハラスメントが時々発生しています。
「いつまでに治すの?」
そう責められたこともあります。
また、吃音を「精神的なもの」だと思われて、毎朝机の拭き掃除を課されたこともありました。
吃音は簡単に治るものではないこと、原因が解明されていないことなどを説明することに苦労しました。
このような、吃音者が生きにくい日本社会の問題の本質は「無関心」なのではないかと思わずにはいられません。
多くの人にとっては、吃音の問題は自分ごとではなく、日常に何の影響もなく過ごすことができます。
一方で、新型コロナウィルスの問題についてのことなら、毎日関心をもって情報を集めるでしょう。
それに比べると、吃音について理解しようという気持ちは持ちにくいのかもしれません。
しかし、私を含め吃音当事者は自ら選んで吃音者になったわけではないですし、誰でも何らかのハンディキャップを持つ可能性はあります。
それぞれの「生きやすさ」は当事者だけで解決するべきものではなく、社会全体が自分ごととして考えていかなければいけない問題であると思います。(teruteru)
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