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吃音を周りの人に告白することに、ためらう当事者は少なくないのかもしれません。私もそんな吃音当事者の1人です。今回はそんな私が、自分を偽ることが正義と思っていた大学時代についてお話していきたいと思います。
偽った自分で過ごした4年間
私は難発、連発、伸発を抱えた吃音者です。大学生当時は吃音症について友達や教授に言わず、偽った自分で4年間過ごしていました。
「言わず」と言う表現が合っているかどうか、分かりません。周りに吃音症だと言えなかった、言うことができなかったという表現の仕方の方が正しいかもしれません。
自分が吃音者と告白することで、周りの人からちゃんと話すことができないと思われて、障がい者扱いをされたり、心無い言葉を浴びせられたりするかもしれないという不安や心配があったので言い出せなかったのです。
「偽った自分」とネガティブな表現しましたが、当時は吃音症を告白せずに偽る自分でいることが自分にとって正義であると認識していました。
偽り続けたその理由とは‥.
私の考えでは、吃音当事者は自分を偽ることが正義だと認識している人が多いのではないかと思います。
私が吃音症と告白せず吃らないことが正義だと認識していた理由は、吃る自分が嫌いであったことと、吃らずに周りの人と普通にコミュニケーションを取ることが当たり前、普通に話せないのは障がい者だという吃音に対して悪いイメージがあったからです。
私たち吃音者は、流暢に話すことが難しく、非吃音者のように普通にコミュニケーションを取りにくい傾向にあります。それでも、自分のことを吃音者だと認めたくない気持ちと、吃ることなく普通に話せる人への憧れがありました。
普通にコミュニケーションを取れないことが、正直カッコ悪いと思っていました。そのため、言い換えや抽象的な説明が多くなっていました。
それでも、学生なので通用していました。なぜなら、自分のタイミングや声量で話せるので話しやすく、気持ちもリラックスできていたからです。
社会人のように絶対に報告・連絡・相談をする必要がなく、難発で上司の時間を奪っている罪悪感も感じる必要はありませんでした。
吃音のある自分とその友達
もしかしたら、友達は私の吃音に気付いてたかもしれません。しかし、皆は私の吃音については触れず普通に接してくれていました。
友達とは社会人になった今でも仲良く遊ぶ仲で、こんな友達を一生大事にしていきたいと思っています。
私は小学生の時から大学生まで友達が多いほうでした。言いづらい言葉を言い換えて通用していたせいかもしれませんし、陽気な性格ということもあったかもしれませんが、小学生から大学生まで友達に困ったことがありませんでした。
吃音があっても、友達は作れますし学生時代を楽しく過ごせます。これは吃音者に勇気を与えるメッセージになるのではないかと思います。
口数が少なくても、友達が話している間合いに突っ込むことで存在感をアピールでき、話を回すことだってできます。
突っ込もうとして、吃りそうになったときは咄嗟に言い換えをして何事もなかったように平然を装いました。しかし、内心は吃音症がバレたのではないかと心臓の音が聞こえるくらい緊張していました。
仲の良い友達なので、吃音については1番バレたくないというのが本音でした。
一方で吃音当事者の中には、仲が良い友達にこそ本当の自分を知ってほしいという人もいるかもしれません。しかし、当時の私は吃音症の自分を出すと友達に嫌われるんじゃないかという思いもあり、ありのままの自分を出せなかったんだと思います。
今、当時の友達と会っても吃音症ことは言えないだろうと感じています。そして、その場は何とか吃音症をバレずにその場を過ごすでしょう。
社会人になってある問題が浮上した
大学生活で、私はそこまで吃音に悩まされることなく過ごすことができましたが、社会人になってある問題が浮上しました。
それは文章力がないということです。大人になるにつれて、ボキャブラリーやタイミングを知ることで吃音を気にせず話せていました。
しかし、言い換えや抽象的な説明ばかりしていたので、文章力がなく指示代名詞を多用していたことが痛いほど分かり、自分のレベルの低さに気付かされました。
また、因果応報という言葉を初めて身に染みて体感できました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。では、またお会いしましょう。
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